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東京ドキュメンタリー映画祭 TDFF2023

6回目となる東京ドキュメンタリー映画祭が12月22日(金)まで新宿K’s cinemaにて開催中。

本映画祭では、今年8月に前プログラムディレクターが性加害疑惑を問われ辞任した問題を受け、誰もが安全に、安心して参加できる映画の現場(映画祭を含む)のあり方を考えるトークセッションを設けた。いまドキュメンタリーを含む映画の現場では、時代や制作環境の変化に対応した“他者への尊厳”への感覚をアップデートし、広く共有することが求められている。

性暴力やハラスメントなど、近年、映画界で起きている問題を構造的な観点から捉え、実際のドキュメンタリー映画や、現場を預かる運営者の実例を踏まえながら、ハラスメントのない、互いの尊厳を尊重できる映画界にするためのポイントを具体的に考えた。
東京ドキュメンタリー映画祭プログラマーの佐藤寛朗が司会を務め、「映像業界における性加害・性暴力をなくす会」の発起人の1人である、俳優・文筆家の睡蓮みどり、『花腐し』などの現場で活躍するインティマシーコーディネーターの西山ももこ、『波伝谷に生きる人びと』『願いと揺らぎ』などの作品があるドキュメンタリー映画監督・我妻和樹がトークセッションを行いました。
東京ドキュメンタリー映画祭202

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■監督主義、作品本位の考え方

睡蓮は、「映画業界の人だけで固まると、みんな映画が好きで、『映画のためならなんでもできます』みたいなマッチョな精神が働いていて、ますますNOと言えない。映画のためなのか、監督のエゴなのか区別がつかなくなってきて、誰かが我慢する。いつも立場が弱い人が我慢せざるを得なくなる。ムラという構造になってしまっているから起きる。」と映画業界の構造的な問題を指摘。東京ドキュメンタリー映画祭202
睡蓮はまた「根本的な人権感覚がものすごく遅れている。俳優は、人とは思われていないみたいな経験を少なくとも私はしてきたし、意見するなんてとてもできないという空気感が流れている。台本の疑問点を監督に質問するということはできても、現場で、監督の急な思いつきに見えることで変えられてしまう。変えることについては否定したくないけれど、あまりに時間がなかったりする中で、言われたら、それをやらざるを得なくなるという、対等に扱われていないというのが映画界の常識になっている。ある意味で『最終的に映画は監督のもの』という考え方は否定したくないけれど、作る過程というのがもうちょっと丁寧に作られていく現場を目指されてもいいのではないか」と提言した。

できたもので評価するという作品本位の考え方が根強くあるけれど、いい作品ができればそれでいいのか?という問いに、西山は、「作品が良ければ作った人の人格はいいのだろうか。友達で、ハラスメントで辞めた人がいるけれど、同業者も『あの人は面白いものを作っているから大目に見てもらっているよね』というスタンスでいる場合、どうやって加害側の人たちを適切に正してもらえるかがまだまだ見えない。どこに声あげたらいいかわからないから、皆救われないまま、永遠と発し続けなくてはいけないのが問題ではないか」と話した。東京ドキュメンタリー映画祭202

佐藤が、「“映画人”という表現をする前に、ひとりの社会人であるということを考えなくてはいけない」と話すと、西山は、「“面白ければいい”、“破天荒な人の方が面白ものを作れる”というようなバイアスがみんなの中にあり、許され続けている。普通こんなことをされたら腹が立つけれど、『あの人面白いもの作るもんね』だとか『あの人のキャラだから許される』というような免罪符がある。『失礼なことは失礼だ』と言い返せるようにしなかったがために、今に至っている。」と指摘。東京ドキュメンタリー映画祭202

また、佐藤が「昔はカメラマンと録音さんがいて、俯瞰的な現場だったけれど、カメラが小型化する中で、監督と取材対象者が1対1の関係になることが増えている」と時代の変化とその危険性を指摘すると、睡蓮は、「映画の作り方・表現の仕方が変わっていくこと自体は面白いことで、加害する人の問題。」と話し、西山は、「カメラが小さくなり、誰でも自由に撮影ができることはいいことだけれど、自主制作レベルで露出が増えてきたり、擬似性行為が増えてきていて心配になるケースもある。」と懸念点を挙げた。

■同意とは

我妻が、監督として自戒の念を込めて、「ドキュメンタリーと言っても、映画表現なので、作り手のエゴが強いというところもある。自分が実現したい表現のために被写体に負担を強いてしまうリスクは度々ある。時として、『被写体は映画に奉仕して然るべき』という特権意識に陥ってしまう危険性がある。例えば、自分の未熟さだけれど、撮影に協力してくれるのは当然なことではないけれど、それがさも当たり前かのように一方的に求めてしまったりした経験もある。どんな人でも、人として尊重されるべき、守られるべき権利がある。その権利を作り手がいかに自覚するか。その中で、被写体の気持ちを置き去りにすることなく、同意というプロセスをその都度丁寧に確認しながら、適切な距離感の中で、被写体の安心・安全、作り手に対する信頼・信用を保証した上で作られる作品が一つの成熟した形なのでは」と提案。東京ドキュメンタリー映画祭202

西山は、同意の難しさについて、「同意ってそう簡単に取れるものじゃない。1対1で話をしたからって、相手が本当に同意しているかは分かりようがない。密室で二人きりになった時に、海外だとドアを開けておくというのが常識だけれど、日本では知られていない。後になって、『ああは言っちゃったけれど、本当は使わないで欲しい』とポロポロ出てくる。相手が監督・ディレクターという関係性の中では本音は言えないので、『同意がちゃんと取れているから大丈夫』と進めていくのはどうかと思う。第三者の目が大事なのではないか?」と指摘。西山は、「今の私ですら、プロデューサーからのご飯の誘いに行きたくないと思っても、どうやって断ればいいんだろうと頭を抱える。プロデューサーにご飯に誘ってほしくないと思うし、もしくは、断りやすい方法で誘ってほしいと思う。そこら辺は、意識的にやっていかないといけないのではないか?」と、映画業界に限らず、どの業界にも繋がる提案をした。

NOと言えるかという点を聞かれた睡蓮は、「今までの経験として公に公表しているものは監督からの性暴力で、それは事実なんですけれど、体験してきたレベルで言うと、監督だったりプロデューサーだったり、昔芸能事務所に所属していた時の関係者からも数えきれないほどある。じゃあ『NOって言えばいいじゃん』って思うかもしれないけれど、まず言える状況ができていない。権力が自分よりある人から誘われた時に『嫌です』『NOです』という言葉を発することがどれだけハードルが高くてストレスかということはもう少し浸透してほしい。」と切実な声を上げた。

我妻が「作り手自身が何を意図して撮影するのかというのを全部言わないで隠してやるというのは問題。後々トラブルを生む。」と話すと、西山も、「みなさんミニマムで伝えていることが多くて、『あれもやりたい』となると、日本の方は責任感があるから、一度受けてしまったら断れないというのがあり、『ここまでやると思わなかったけれど、始まっちゃったからやるしかない』となる。」とよくあるトラブルを挙げた。

■心からの同意を得るために

我妻は、「ある作品で、主人公の方と関係良好で綿密にやり取りを続けてきたのが、発表する直前になって、『我妻さんに協力したい気持ちがあるし、この映画のテーマも理解していたからいいかなと思っていたけれど、どうしても不本意なところがある』と言われた。1対1で話していても、打開策が見えなかった。自分も妥協したくない部分があるし、相手も協力したいけれど譲れないところがあるということで、僕としてはお蔵入りする覚悟もあったけれど、その方が、お互いが信頼できる第三者に相談し、その人を間に挟んだおかげで、具体的に改善策を調整して行って、チームとして進んでいった。第三者は、映画の人でなくてもいいのではないかとも思っている。」と実例を挙げた。

西山は、「インティマシーコーディネーターとして話を聞く時は、『私に言ってくれたことで、あなたが不利になることはないですよ』と前置きをするようにしている。安心な第三者というのをどうやって作っていくかは課題」と説明。「たまにプロデューサーやキャスティングの方に『インティマシーコーディネーターをやりたい』と言われるけれど、その場合、『プロデューサーやキャスティングという立場を捨てないと意味がないですよ』と言う。キャスティング権がある人にちゃんと話せるかと言ったら話しにくい。『私は結構寄り添えているから』と言うが、“第三者にある”というのは、“中立的な第三者”である必要がある。」「年齢や経験を重ねてくると、誰でも誰かにとっては権力はある。権力に無意識な人がすごく多いと思う。」と自身の経験を話した。

■変えていくための方法

どうしたらNOと言えるようになるかという問いに、西山は、「連帯していくということではないか。一人でNOというのはすごい体力だし、孤独。一人で声を上げても、世の中は何もないように過ぎてしまい、色んなものが復活していってしまう。仲間がいて、一緒に声を上げて、それをメディアが掬い上げて、ずっとOKということにしていかない、草の根運動からやっていかなくてはいけないのではないか。」と提案。

睡蓮は、「今年、映画業界で手と手を取り合えるはずだったのに、取り合えなかった。連帯が全くできていない、というのは現実にあるので、来年変えていきたい。私自身、自分が性暴力に遭ったと気づいていなかった。おかしなことがたくさん起きていたので、まさか顔見知りの監督から性暴力を受けるとは思っていなくて、『私がうまくあしらえなかったのが悪い』とずっと思っていて、性暴力だ、レイプだという感覚はなかった。去年他の方が声を上げたことでやっと気づいた。それまでは映画界のおかしな感覚に自分も毒されていた。心が壊れていった時にお酒に頼るしかなかった。いわゆる昭和的な価値観を受け入れる方向に間違った努力の仕方で頑張ってしまった。そういう価値観自体を終わらせないと。自分自身に反省点はたくさんある。誰かからしたら、私も加害側かもしれない。それを言われたら謝るしかない。謝って反省して、隠さないこと。自分の罪を隠蔽したらダメ。映画業界にいるどの人も、クリーンなままできた人は一人もいないのではないかと思っていて、連帯するために、自分の罪を認めるという行為も必要なんじゃないか。」と提案した。

睡蓮は、「予算がなければピリピリもしやすいし、忙しくなるほどパワハラも生まれやすくなり、近い距離感になって、性暴力も許容しろというような空気感になる」と低予算の現場の問題点を挙げつつ、西山は「低予算だからハラスメントが起きるというわけではない。商業で大きいところでも話は聞くので、何が違うかを考えた時に、皆の人権に対する考え方や、人に対するリスペクトが問われる気がする。人伝に、『こういうハラスメントがあったんだよね』と聞いた時に、これをどうやったら活かせるのかがわからない。『あの人大変らしいよ』『あの現場大変らしいよ』と草の根レベルで言っていく以外思いつかない。」と、業界全体での早急な対策を求めた。

■メッセージ

それぞれのメッセージとして、佐藤は、「ドキュメンタリー業界では、制作プロセスの議論や人を撮るとはどういうことかだとかの倫理は問われてきた歴史がある。『殺しの現場を撮れ』と言われた時にどう判断するかだとか、制作の局面に関しては話をする機会はあったけれど、“寄り添い”とか“共犯関係”など、ドキュメンタリーの中で信じられてきた幻想に自分を上書きしてしまうことがあるかもしれない」と今までの歴史と危険性について触れ、「要所要所で議論をしてアップデートをしていきたい」と抱負を語った。

我妻は、「被写体が望まないことを強要するのは暴力。グレーゾーンな部分も出てくるかもしれないけれど、一定の線はあるとも思うので、倫理だったり、人権意識を踏み越えない中で表現をやっていくことが大事。伝えることの大切さ、知ることの大切さのために、誰かの尊厳が蔑ろにされてはいけない。」と念を押した。

西山は「同意って安易に語られがちだけれど、相手が100%理解できる状態か、お酒飲んでいないか、精神的にキていないかと、更に、相手が『これをやったら自分にこういうネガティブになることもあるかもな』ということも含め情報を与えられた上で同意をしているか。また、同意は変えてもいい。撮り切るまでの全てを同意したわけではない、ということを作り手が意識しておかなくてはいけない。『出演するのはOK』とは言ったけれど、都合のいいようにしないでほしい。」と訴え、我妻は「同意書を作ったりする制作者もいるけれど、同意したから覆せないわけではなく、僕は、『不安があれば「これは変えてほしい」とぜひ言って』ということの確認のための紙を用意している。」と工夫を挙げた。

最後に睡蓮は、「普段ドキュメンタリー業界の方と話す機会がないので、貴重な機会だった。こういう場を来年は多発させたい。今日で終わりじゃなくて、話し合っていくことで見えていくことはいっぱいあると思う。作り手の自己満足で終わらない未来が今日ちょっと見えたような気がした」と希望を覗かせた。

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