斎藤工、行定勲、町山智弘ら各界の著名人からのコメントも到着!
■斎藤 工 /俳優・フィルムメーカー ※BLOG(ブログ)より引用
またしても傑作かよ!!
こんな塊のような熱波が映画に宿るのは
ひとえに若松孝二愛を胸に集まりし映画人達のなせる技
追悼でも鎮魂でも無く
寧ろ未来への狼煙の様な作品
誰も 白石和彌を止められない
■麿 赤兒/舞踏家・俳優
権力の風圧が強大であればあるほど、彼等は胆力と知力、そして大いなる諧謔で切り裂いていく表現者達であった。その血は今も脈々と受けつがれている。
■阪本 順治/自笑映画監督
井浦新が自分にはないものに近づこうとするその凄さに若松孝二そのものを感じ、門脇麦が睡眠薬をボリボリ噛むのはいつかのオレだよな、と。白石和彌はいつも愛の底を描く。こんなややこしくも愛おしい人たちを観よ!
■行定 勲/映画監督
観ている間、私の青春も回帰されるような映画への憧憬が飽和した作品だった。映画で世界を変えようと真剣に向き合っている若者たちの姿を忘れてはいけない。そう思わせてくれる必見の映画だ。
■品川 ヒロシ/映画監督
当たり前なんだけど、俺が生まれる前から、映画があって、新宿があって、タバコ吸って、酒を飲み、笑ったり、汗と涙を流して、青春をしていた。しかも今よりも温度が高い。その熱量がこの映画に携わっているスタッフと、俳優に伝染して、スクリーンから青春がこぼれ出してくる。
■金子 修介/映画監督
若松さんも含めて顔見知りの人たちの昔が再現されているので、とても客観的には見られず、あれはこういう意味だったのか?・・・と対していると、いつの間にか自分を重ねて共感し、時代を振り返っている。「熱い人たち」を暑苦しく無く描いて風通しが良いから、知らない人が見ても面白いはずだ。
■佐々木 譲/作家
遠山美枝子が登場した場面で、あらためて映画が描く時代を意識する。
あのころの自分には、ときどき若松孝二監督の映画を観るという、誰にも教えない憂さ晴らしがあった。
いま、作品中に出てくる若松監督作品を、もう一度観なおしたくなっている。
■町田 康/作家
正しさと優しさに覆いつくされて見えなくなってしまった人間の悲しみ、涙、純粋な思いがこの映画のなかにあった。若松監督のなかにあった。
■古田 泰子/TOGAデザイナー
1969年、若松孝二監督を中心に繰り広げられた映画というフィルターを通しての革命青春ドキュメンタリー。
2018年の今、当時を組みほどきながら若松イズムを継承する数少ない遺伝子達が情熱をすり合わせる。
私達はもがいているか、何かと戦っているか!すみません、監督!
■荒木 啓子/PFFディレクター
迷いながら惑いながら頑張った1970年前後の女の子たち。
いつだってやりたいことをやってみるのは、簡単じゃない。
でも「大丈夫。怖れずにすすめ」と若松孝二は明るく笑う。
勇ましいタイトルだが、こよなく優しい映画。今必要な映画だ。
■町山 智弘/映画評論家
若松孝二は問いかける。「お前は何をぶち壊したい?」と。「映画の中では何をしても自由だ!」そう! だから俺は映画が好きになったんだ!
ああ、こんな時代はもう来ないのか!
■四方田 犬彦/映画史・比較文学研究家
『止められるか、俺たちを』は簡単にいうと、新撰組の映画である。いろんな若衆が出てくる。みんな個性的で、酒を呑み、喧嘩をし、集まっては別れていく。新撰組にとって剣の道とは、若松プロにとって映画の道だ。
もちろん新撰組と若松プロは違う。新撰組は維新の志士を暗殺した白色テロ組織であり、若松プロは既成の映画界どころか体制までの転覆をめざす赤色アートだ。だがもし<1968>という転形期を幕末に重ね合わしてみれば、この二つの男たちの集団の間には、イデオロギーを越えて不思議な共通点が横たわっている。
■安藤 紘平/映画作家・早稲田大学名誉教授
これは、映画という魔性の世界に魅せられて熱く青春を燃やした若者たちの物語である。その中心に居たのは監督若松孝二だが、寧ろ、一人の少女の時代への想いと燃え尽きた青春を映像に焼き付けたところが尊い。
■佐藤 信/東京大学助教(政治学)
私たちにとって若松映画、そしてそれを引き継ぐ本作は、群像劇であり映画論であると同時に、肉体論でもある。そう考えたとき、50年の時を超えて、若松プロはいまでも肉体で生きる私たちにヤイバを向けているし、そのヤイバは私たちなりに最前線を生き直す一助となるはずである。
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