パンフレット
上映期間中には、限定300部でパンフレットも2200円(税込)で販売。
芝田監督が自身の映画作りについて言葉を寄せるほか、小森はるかと芝田監督との対談、安藤礼二・水野幸司・沢山遼・石山友美による論考や橋口亮介のエッセイ、そして本上映作品の音響監督である川原圭汰による「音と空間」に着目した漫画など、多彩な内容を収録した48ページのパンフレットだ。芝田監督自身も編集に参加し、パンフレット作りも映画制作のひとつと捉え、作品を通して「映画とは何か」を根本から捉えなおすことが試みられている。装丁や紙にもとことんこだわり、光の反射や手触りも含め、細部にわたって楽しむことができる。
本パンフレットにはB3サイズの折りたたみポスターを付録として封入。アザービジュアルが印刷されたポスターの裏面に、映画研究者・斉藤綾子による「戯れと光と、女たち」と題したエッセイや、鈴木結太による「廃墟として生きる家」と題した論考、本上映に寄せられた推薦コメントまでもが収められる。
推薦コメント
清原惟(映画監督・映像作家)
わたしがいない間、家はどう過ごしているんだろう。家はどんな光を浴びて、どんな呼吸をして、どんな匂いを、どんな温度、どんな時間を過ごしているのか。芝田さんの作品を観ていると、そういった不可視の時間へ思いをめぐらせてしまう。人間が作ったものであっても、まるで自然のなかにいるみたいな時間を生きることがあるのだと。
鈴木理策(写真家)
コミカルだが、どこか不穏な人物たち。その存在の理由は不確かなまま、
彼らが家を静かに生き返らせていくさまを、私たちは確かに見届けることになる。
芝田日菜さんの映像は、水の中にいるかのような独特の速度で流れていくのが印象的だ。
鈴木理策(写真家)
夢か、現か、幻か。
『暝映』はカメラに呼吸を与え、風を呼ぶ。
揺らぐ光は、いま見えているのか、思い出しているのか。
月に向かって立ち昇る煙は観音の姿に。
これは明恵の夢だろうか。
小森はるか(映像作家)
人が現れる。光源が揺れる。扉が開く。
映画の中で、何度も目にしたことのあるような動きに、驚きと喜びが溢れる。
カメラは、人や場所とどう関われば誠実であれるのか。
現場で延々に試行錯誤する日菜さんだからこそ、編み出したユーモアには体温が宿るのだ。
そういう体験を映画に求めていたのだと、気付かされた。
鈴木亘(美学研究者)
水や風、光、それから草木、家、そうしたものがカメラを通じて、新たな生を生き始めているように見える。それとともに人間も新たな生、というか人間ならざる者の生へと変容するようだ。芝⽥⽇菜が行っているのはこうした変容を捉え、新鮮な驚きとともに鑑賞者に与えることであり、したがって映画そのものの原初的なあり方に触れることなのだろう。
七里圭(映画監督)
その家に生息しているのが女たちであることに、
やはり、そうなんだなあと思いました。
もう、男は河童にもなれない世界なのだと。
できることはと言えば、メンテナンスくらい。
(あるいは、それすら役立たず)
僕も、河童の家に棲まわせてもらいたいのになあと、
ジェラシーを感じる映画でした。
草野なつか(映画作家)
この作品を観た、という人とお会いしたとき真っ先に聞きたいのは「女性が突然草むしり始めていたところ、爆笑しませんでしたか?」ということ。<観客>としての自分の中にあるセオリーのようなものが、何食わぬ顔でいとも簡単に握りつぶされたあの瞬間はもう、声を出して笑わずにはいられませんでした(ちなみに他にも爆笑ポイントは何度か訪れるので、その話もしたい)。
家という生き物は、人がいない間・空っぽの間は何を考えて過ごしているのか。住人の住み替えが起きるたびに家は生まれ替わっているのか、生き直しているのか。もしくは家そのもの自体は何も変わっていないのか。
<いきもの>が画面内に増え最初は八百万の神について考えていたのですが、中盤終盤に差し掛かっていく展開のなかで、<それ>はもっと軽やかでもっと触感のある存在へと変わっていったあの快感のような感覚、この映画のほかでは感じたことのないような魅力がそこには溢れていました。
それから、『水面に映る家』を観て、監督・芝田日菜さんの問題意識?というか、問い?のようなものが、自分が持っているそれとすごく近くにあるような気がした。またゆっくり、いつかお会いできたら嬉しいです。
川上さわ(映画監督)
いくつもに重なったフレームの中(でしか)いきいき(できない)人間・光・あらゆる部位が画面の外と中を通過する。”映画”の形式のルールが最優先にされるその家は、まるでアジールのように思えた。わたしの身体が”映画”のしくみになることを強く希望するような、”映画”という友達の実家に入ったような、とにかく身振りが固定されるよろこびがあった。
山本浩貴(「いぬのせなか座」主宰、小説家・デザイナー・演出家)
家に積もった具体的な時間に新たに手を入れていく、その過程がそのまま映画になっている。家が思いつかせた空間への「試み」の手つきがそのつど見る側にも共有され、ふと笑えてしまった瞬間から作品全体がぐっと親密になる。何より印象に残るのは、この映画が持つ「現在」の独特な感覚だ。家が抱え持つ歴史の厚みが自分を複数化させる――そんな話には還元できない奇妙さで現在が散らばり多重化していくさまを見て、確かに私はこのように生きていたかもしれない、と思った。
のもとしゅうへい(作家・漫画家・イラストレーター)
だれかに与えられた視線や手つきではなく、自らの経験と意思によってたしかめられた時間や身体の使い方で、世界との距離を縮めていく芝田日菜さん。
そのプロセスに映画という名前が託されて、わたしたちの眼の前で光るとき、みえなかったはずの世界はいっせいに、次々と手を挙げはじめる。みえない。けれど、あるのがわかる。ああそうだ、世界というのは、もともとずっとそうやって、わたしたちのそばにいた──そう思い出す。
遠藤薫(美術家)
街に一つは必ず空き家のようなものがある。地方に行けばもっと、だろうか。
錆びゆく家に息を吹き込む作業は気だるい。
気だるい空気に誘われるのが河童で、私が河童でもそういう家に住みたいと思う。
今日も地方都市を転々と歩いては、借りもしないのに「借家」の看板の前にぼーっと立ち尽くす。
ほとんど全ての家が錆びゆく道だ。そんな家に住んでみる想像をする。その時の私は、ただ、河童になる予行練習がしたいだけなのかもしれない。
そう思える映画だった。
(と、このように、映画を観る前に映画のレビューを書いてみた。観る前にレビューを書いてみたくなるような不可思議な映画であり、さらには観終わった後も間違いなく不可思議で素晴らしい映画だな、と思える映画であったのだけれど、観終えたあとの私は、河童にはなりたくないな、やっぱりなりたくないなあ、と思い直し、空き家に背を向け足早に自宅へ帰る。)
竹久直樹(写真家)
冒頭2分で芝田さんは現実を(そいつがいくら最悪でも)本気で信用して、その現実にカメラを向けていることがわかったのだけど、それってすごくないか。だからこそカメラが現実に負けるのをじっと待ち続けることができるのだと思いました。
川村智基(劇作家・演出家・所属:餓鬼の断食)
軽薄な振り付けを拒むじっとりとした家屋に、更に湿度の高い人物たちが迷い込む。
彼らの所作の連続は、いつの間にか日常からの逸脱を試行し始め、これは1つの沈黙劇なのだと気づく。
芝田日菜という重力の振付家が、映画という媒体をひと塊に圧縮させて、ぶん投げて、爆発したらこの映画ができたのだろう。
何処かで嗅いだことのある、見たことのある獣臭い軌跡の連続、アニミズムなんて言葉は野暮で『ただそこに在る』と鮮烈に裏付けられ続ける事件の数々。
殴られたような面白さ、弾けるような快活さ、一発ギャグで腹筋が背筋に入れ替わっちゃうような暴力性が、圧倒的な静謐さを伴って映し出され続ける。
時折立ち現れる重力は、光と影、土地と建物、人間と環境の境界をゆっくりと混ぜ合わせ、私たちは空間の新陳代謝を目撃する。
彼女は様々な重力を一手に引き受け、再構築し、僕たちの元に届けてくれる。
沈黙劇の新たな可能性を開発した彼女と、美しいこの作品に心からの尊敬を込めて。
<気配>に触れる——
従来の映画づくりにとらわれず、「撮る」ことを通してメディアとしての映画の再発見を試みる芝田日菜。現在、東京藝術大学大学院先端芸術表現科に在籍し、映像作家として活躍する彼女の劇場公開デビューが決定。
映画を発見するようにして作られるその作品たちには、これまで取りこぼされてきた映画の可能性が格納されている。自らカメラを回し、現場で演者やスタッフと意見を共有し合うスタイルで作品を制作してきた彼女の歩みをスクリーンで追うことは、映画のはじまりへの遡行と映画の未来のはじまりへと観る者を導くだろう。
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